【この記事に登場する人】野仲賢勝(のなか・けんしょう)。熊本県出身。筑波大学卒業後、1991年株式会社電通へ入社しサッカー事業局にてサッカー日本代表、JFA日本サッカー協会やJリーグなどのマーケティングやスポンサーセールスなどを担当。東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会では自転車ロード競技全体責任者を務め、日本女子プロサッカーリーグ専務理事を経て2024年6月株式会社電通退社。現在、スポーツビジネス実務経験を活かすべく博士課程進学準備中。昨今国内でプロスポーツチーム・リーグが次々と誕生し、多くのリーグで来場者数が毎年過去最高を更新している。プロスポーツの隆盛に伴い「スポーツビジネス」という言葉を耳にすることが増えた。サッカーW杯や東京オリンピック・パラリンピックの運営に従事し、スポーツビジネス最前線で働いてきた野仲さんにその経験やスポーツビジネスの将来について話を聞いた。-大学卒業後のファーストキャリアは株式会社電通でした。スポーツビジネスがしたいという思いからでしょうか?元々体育の先生になりたくて筑波大学に進学しました。蹴球部に所属していたのですが、ある大会で会場にスポンサー広告の横断幕を張る大人たちと出会ったんですね。私が初めて広告代理店という仕事を知ったきっかけです。人生経験として就活をしていたのですが、スポーツを仕事にする広告代理店という仕事に興味を持ち、縁があって電通に新卒入社することになりました。とはいえ、「スポーツビジネス」という言葉は一般的ではなく、まだまだビジネス的にも小さく社内でも傍流の存在だったと思います。-入社直後からスポーツに関連する仕事ができたのでしょうか?運よく私が入社した1991年に世界陸上が東京で開催され、早速「マーケティング部」として現場で働くことができました。物の運搬やテントの設営など手足として動く作業がメインでしたが、入社早々の私にとってはインパクトのある仕事でしたね。大会終了後はスポーツとは関係ない広告営業に7年間従事しました。-野仲さんはサッカー畑を長く歩んで来られました。どのタイミングで足を踏み入れたのでしょうか?1993年のJリーグ開幕、1997年の日本代表フランスW杯出場権を獲得などから、国内のサッカー熱は大きく高まっていました。そんな中1997年に社内でサッカーを扱う局が新たに誕生し、自ら手を挙げて異動したのがスタートです。1998年フランスW杯出場に向けた日本代表のマーケティングを担当することになりました。ユニフォームスポンサーに対するセールスやメニュー開発、プロモーションなど幅広い業務を担当しました。-国内サッカーが盛り上がる運命的なタイミングですね。具体的にはどのような業務に従事されたのでしょうか?一例ですが、記者会見で使われるインタビューボードや、練習着へのロゴ掲載、スポンサーロゴ入りの商品開発などのスポンサーメニューを開発とそのセールスを担当しました。メディアの注目度が過去最大になるタイミングで最大のメディア露出が期待されるスポンサーメニューを導入したんです。インタビューボードは海外クラブを参考にしたもので、おそらく当時国内では最初だったと思います。「TVの画角にスポンサーロゴが入らない」といったトラブルがあり、ロゴのサイズや配置を研究して現在と近い小さいロゴを多重配置するデザインに収まりました。屋外での会見では私がインタビューボードが風で倒れないよう後ろで支えていたこともあります(笑)-現在では当たり前のインタビューボードにも苦難の歴史があったんですね。サッカー日本代表の人気が高まる節目から携わり、そこから長くサッカー日本代表を支えることになったんですね。結果的にはサッカー日本代表、日本サッカー協会とは長い付き合いになりました。2009年には日本サッカー協会へ出向し、サッカー協会の人としてスポンサーセールスを担当することになりました。当時はまだサッカー協会にスポンサーと適切なコミュニケ―ションを取るノウハウやリソースがなかったので、担当者として長く付き合いのある私に白羽の矢が立ったようです。結果的にスポンサー対応だけでなく、競技(大会)運営全般を広く担当させていただくことになりました。-スポンサーセールスとプロモーションはけっこう業務内容が異なる印象です。戸惑いはありませんでしたか?2012年までサッカー協会にいたのですが、本当に色んなことが起きた濃い期間だったので考える余裕はありませんでした。2010年に日本代表は南アフリカW杯に出場するのですが、人気選手の不選出などの理由から開幕直前まで国内でそれほど注目されていませんでした。国内での開催試合でもさびしい観客動員でスポンサーから怒られたこともありました。EXILEさんから日本代表を盛り上げるための楽曲提供をいただくご縁があり、オリジナルグッズ開発などいろんなタイアップにつなげ注目度を高められないかと苦心しました。ふたを開けてみるとグループリーグを勝ち上がり決勝トーナメントへ進む快進撃で、帰国してみると大歓迎にガラッと雰囲気が変わっていたのですが。-2011年には東日本大震災を経験されます。サッカー協会としてどのような動きをするか判断が難しい状況だったのではないでしょうか。悲惨な状況がメディアを通して知れわたり当時はイベントなどの自粛ムードが世の中を覆っていました。そんな中、選手から「なにかできないか」と声を上げてくれたんですね。関係各所の協力があり、災害発生から1か月以内の2011年3月29日に、日本代表とJリーグ選抜が戦う「東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン! 」を開催することができました。被災からすごいスピードでプロモーション含む試合準備を行い、当日も来場者からの寄付金を試合当日に発表するなど、来場者や選手の気持ちに応えるべく裏方として奔走しました。-スポーツの力の大きさをあらためて感じる出来事ですね。2012年はなでしこジャパンの世界一がありました。こうして見ると野仲さんがサッカー協会にいた3年間は本当にエポックメーキングな出来事ばかりですね。なでしこジャパンは一夜でスターになるとはどういうことなのか間近で経験させていただいた貴重な機会でした。大会直前まで注目度はそれほど高くはなかったのですが、世界一から帰国後メディアからの取材がひっきりなしでした。私も監督、選手と一緒にスポンサーやTV局を連日回っていました。-その後は出向解除され電通のお仕事に戻ったんですね。はい、電通に戻ってサッカー協会、Jリーグ担当を担いました。2017年からは東京オリンピック・パラリンピックに向けて組織委員会へ出向することになりました。振り返ると出向してばかりですね(笑)組織委員会では最初は自転車やマラソンなど路上競技の責任者としてテストイベント運営を担当しました。競技が問題なく運営できるか本番1~2年前にテストイベントを実施します。スケジュール、行政との折衝、会場手配等が主な業務内容でした。-運営にとって路上競技の難しさはどのようなところにありましたか?公共の道路を使うことが、会場競技との大きな違いです。当然道路を封鎖したり交通制限をお願いするので近隣住民の方にはご不便をおかけしますよね。町内会、商工会などあらゆる単位で説明会を200回以上行い理解を得る努力をしました。また、自転車競技はコース全長200kmを超え県境をまたぐので警察・消防は管轄が変わるんですね。競技者が時速100km以上で走行するエリアもあるので、県境を跨いだ際のスムーズな先導車の離脱と連携などにも心を砕きました。イベントは立ち上げがなによりも大変です。一度開催してしまえば前例踏襲で開催できますから。マラソン、自転車など各協議のスペシャリストの方々の力も借りつつ、第一回東京マラソンを運営された方の助言もいただきながら調整を続けていきました。-想像するだけで胃が痛くなる大変なお仕事ですね。コロナ禍もあり本番まで気が抜けなかったのではないでしょうか?コロナ禍に見舞われた当時、無観客試合が基本路線ではあったのですが、ゴール地点は自治体から感染者状況を考慮し一部有観客を認められていました。その運営体制については前日まで侃々諤々激しい議論がありましたね。最後は、感染対策に注意をしつつ、観戦者がゴール付近で選手を称える自転車競技の慣習も含め、最大限現地で楽しんでいただける体制を取りました。有観客で開催できた競技がとても少なかったので、ビジョン演出や遊具など他競技で使用予定だったコンテンツをたくさん提供してもらいました。他競技担当の方にとっても、せっかく苦労して準備したコンテンツがお蔵入りになっていたかもしれないので、実際にお客様に見ていただく、使っていただく場ができてことに喜んでいたようです。自転車競技は通例として大会初日に開催されます。それは、屋外で長距離にわたる競技であるため、開催国の景色を世界に紹介することのできるダイナミックさがあるからです。なるべく現地観戦を楽しんでいただける態勢を取りましたが、結果的に好意的な報道や反応が多く、初日開催として良い取り組みができたのではと思っています。【関連リンク】W杯、オリンピックなどスポーツビジネスの現場から ~野仲賢勝さんインタビュー後編~<取材・文>佐藤大輔(Spoship編集部)